最近車の中で何度も繰り返し聴いている曲がある。
その曲の歌詞の一部が
何もない僕たちになぜ夢を見させたか?
終わりある人生になぜ希望を持たせたか?
なぜこの手をすり抜けるものばかり与えたか?
それでもなおしがみつく僕らは醜いかい?
それとも綺麗かい?
答えてよ
これはRADWINMPSの「愛にできることはまだあるかい」の歌詞の抜粋だ。
僕にとって音楽は歌詞よりもメロディー方が入りやすくて歌詞がなかなか記憶にのこらない。でも、この曲の一部の歌詞が僕の心のフィルターを潜り抜けて入ってきた。それが先ほど紹介したところだ。
僕がこんなことを意識するようになってから5年ほどになる。そのおかげで色んな経験をしたし見えなかった世界が見えてくるようになった。これは霊的才能が開花したとか言う話ではないが、だからこそ先ほどの歌詞を聴くと乾いた植木鉢の土が水を吸うようにジワジワっと入ってくる。
僕たちは生まれてくる時、この世を去る時は何も持っていない。もう少し掘り下げて表現すると生まれてくる時はもちろん、去る時も目で見ることができる物質や人間が価値があると思うものを持って行くことができない。そして、この世に生まれてきたら必ずこの世を去る時が来る。ではどうしてそんな限りのある人生で夢や希望を持って生まれてくるのだろうか?(人によっては夢や希望を持てないと思っている。僕自信がそうだったから。)
ここからは仮説ということにしよう。
僕たちには『手をすり抜けるもの』を手にしたという経験が必要なのだ。想像ではなく体験しないといけない。そのために精巧にできた肉体を身に纏っている。では、体験することでどうなるのか?
その前にこの話では『輪廻転生』(人は車輪が回るように生まれ変わる)という概念が必須条件なのだ。簡単に言うと魂(目に見えない)が運転手(自分)で肉体(身体)が乗り物と捉えることができ、肉体は滅びていくが魂は永遠に続いていく。その条件でいくと生まれてくる目的が何となく見えてくる。魂というものが永遠に続くのならばその魂を何とかしたいはず。色んな表現ができるがダイヤの原石を磨くような感じで捉えてみてはどうだろう。僕たちは魂を磨くために生まれてくる。これでもかなり抽象的だけれどこう考えてみると無駄な命など無く生まれてきたからにはどんな状況であれ少しは人生を全うしようと思えるようになる。
それを踏まえた上で体験に話を戻すと仏教やヨガ哲学で言われるところの『カルマ』(行い・業)という概念も捉えやすくなる。この『カルマ』とは過去世・現世のもで物質的には見えないが預金のような感じで良いとされるもの(預金)も悪いとされるもの(借金)も両方の行いは僕たちが行動し体験をすることによって積み上げたり解消したりすることができる。それを繰り返すことで魂を綺麗に磨いていくことができる。そのために生まれてくる。だから「今世、死んだら終わり」って訳にはいかない。今までやってきた全てのことがまた次の生に持ち越されると思うともう少し真剣に生きようと思うのは僕だけだろうか。
僕たちは生まれてくる時にこの目的やカルマを自動的に忘れてしまい目に見えるものに翻弄されてしまう。でも、今このことに気づくと生きることがすごく楽になる。今世で叶わなかった夢もやってきたことは持ち越せる。日々、時間に追われ生きがちな僕たちだが一人の時間を持ち静かな場所で自分を見つめてみる時間を持つと忘れてきたことを思い出すきっかけになるかも。
今回も最後まで読んでくれてありがとう!