ボクのお母さん

今日は、小学生の頃に書いた作文のテーマを47歳になったボクが書こうと思う。実に40年振りくらいかな(笑)何故、今回母のことを書こうと思ったかというと、いろんな意味で母はボクにとって大きな影響を与えてくれている大きな存在だから。

母は現在73歳だ。ボクの記憶を遡ると若い頃20〜40代の母は熱い人だった。今もその熱さは要所要所で出現する。ボクが小・中学生の頃は近くの会社へパートに行っては辞めて帰って来ていた。その理由は上司のとの折り合いがつかずというもの。パートさんたちの意見(働き方など職場環境の)を代表して社員さんにぶつけて関係が悪くなるような感じだと思う。また、学校のPTAの役員をしたりしてとにかく子供目線からでも目立っていた。

あと、「これだっ!」と思ったことは周りを気にせずドンドンやっていた。だから今から思うと行き当たりばったり感が半端ない家だったような気がする。それに昨年1月に父が他界して兄が初めて両親の通帳を見て愕然としていた。何故なら貯金がほぼゼロだったからだ。子供目線であれだけ貯金をしていたように見えていたのにびっくりだった。ただ、幸いにも借金もゼロだった(笑)

そんな母親はボクにとって時には天使のような存在であり、時には鬼のような存在でもあった。ちなみに兄が小学生の時、母のことを作文で鬼と表現して鬼の絵を書いて母が鬼になっていた(激怒していた)ことを今も覚えている。そんな母に褒めてもらおうと子供なりに頑張っていたように思う。だから兄妹よりも家族の顔色をうかがうようになり、外に出ても周囲の顔色をうかがうようになった。

そんなことがボクの人生に大きく影響した。常に誰かを意識し自分を見失っていき、自分の居心地のいい場所は自分の殻にこもることだった。今となっては全ては必然で感謝の気持ちでいっぱいだ。でも、当時のボクは生きることが本当に辛かった。

そんな母が今どうなっているかというと、父が10年ほどパーキンソン病を患っていたので亡くなる約2年間は家で父の介護をしていた。喉頭全摘術をして話せなくなり、一人で食事や排便ができなくなった父をほぼ一人で介護していた。最後の半年のある日、母の身体が悲鳴をあげて入院した。それでも退院後、母は家で父といたいいう希望と出来るだけヘルパーさんが家を出入りすることを避けたいという希望を通りに父の介護生活を送った。

父のことを「愛してる」という言葉を母からは聞いたことはないが、心の奥底では愛していたのだと思う。今も愛しているのだと思う。そんな我が家では『愛』の表現は今も皆無。これからのボクのテーマでもある。そんな周りから見ると大変そうだった環境にも関わらず母はひとつの光を見つめていた。それは父の介護をしている中で「こうしたらもっと楽になるはず」だった。今もこれからも介護をする人、される人にとって「こうなったらもっと楽になるんじゃないか!」この想いと父に対する愛が母の原動力になったような気がする。

そして、父が亡くなって1年と7ヶ月が経ち母が特許を取得し、介護用品のメーカーと商品開発をしている。目の前のやりたいことを追求した結果、心から望んでいた現実を創り出している。自分の会社も作りたいそうだ!まだまだ、やりたいことがあるみたいでイキイキしていて輝いている。

そんな母を見てボクはつくづく思う。ボクがこのお父さんとお母さんを選んで生まれて来たんだ。この両親の生き方から学ぶことがたくさんあるからこそ、今一緒にこの地球で生きているんだ。お父さんは一足先に行っちゃったけどお母さんとは体験し学ぶことはまだたくさんあるんだと。お母さんは今も生き様でそれをボクに見せてくれている

ボクのお母さんは、鬼ではなくボクにとって太陽だ。熱くて長時間一緒いると火傷(今は日焼け)するけど眩しいほど明るく輝いてボクたちを照らしてくれる。何歳になっても「やりたいこと」をやり続け、行動し続けるお母さんの姿がボクにとって必要なことなんだ。それを言葉では言わないが背中で今も見せてくれるのが本当に頼もしい。

お母さん、ボクの母でいてくれてありがとう!お母さん愛してる!

 

最後に質問です。

「あなたにとってお父さん、お母さんはどんな存在ですか?」

 

今日も最後まで読んでくれてありがとう!